ピアノ。贅沢品。きっと、昭和30年代の幸せの象徴。
最初はオルガンを習いにいった。幼稚園の頃。チェーンになっている音楽教室。大勢の子供たち(10人ぐらい?)が一斉にオルガンを習う。冷房はなく、夏は 汗だくになる子供たち。“チューリップ”とか“ちょうちょ”とか。明るいアメリカ民謡も。ドレミ、を習う。それから、オルガンだけではなく、時々、いろい
ろな楽器をみんなで合奏する。木琴。鉄琴。トライアングルの澄んだ音色。子供用の小さいシンバル。太鼓。カスタネット。笛もあったかな。木魚に当たった子 は、泣いてしまった・・・。(だってあまりに渋すぎる。小さな子供にとっては、“幸せ”からは、遠い音色・・・)
それから、ピアノが家にきた。小学校の頃? ううん、幼稚園の年長さんの時? たぶん、すごく大きな買い物。
ピアノの先生のところには、大きなグランドピアノ。それから、冷房。団地の5階。眺めのいい部屋。(だけれど、地上から切り離された感覚。地上とは違う強い風、の部屋)
ソルフェージュ(声楽の曲。練習の?)。子供のための練習曲。バイエル、より、もっと簡単なもの。それから、毎年夏の発表会。とても大きなホール。結構いっぱいの観客。(子供と、その家族、大人の生徒の方たち)
ピアノは、子供の練習曲だって、ただ、先生のところに通っているだけでは、間に合わない。上達しない。先生のところにいっても、なにもひけない。家で練習 しないと。母が家でその練習をみる。“ドレドレ”。“ドミソラシド”。符を読むのがやっとな親子。ちっとも上達しない、子供の腕。ヒステリックに、“後5
回”と、叫ぶ母。“それなら、ママがひいてよ。お手本を見せてよ”。でも、母自身は、ピアノは、ひけない。母の劣等感。自分がひけないからこそ、子供にピ アノを習わせているのに。そうやって自分のかわりに、子供を使って、幸福を得ようとしていた?いる?母。ピアノをすらすらひく子供の母になりたい母。ピア
ノをすらすらひく子供の演奏を楽しみたかった母。そう、楽しみのために買ったはずのピアノなのに。楽しむために楽器はあるのに。もう、親子ともども、ピア ノにはうんざりしてしまう。弟は、そうそうにやめてしまった。
すっかり大人になって、あれからずーっと時間のたった私は、また、ピアノを弾きはじめている。相変わらず、つっかえつっかえだけど。ピアニスト、からは程 遠いけど。でも、あの音がすき。音の響や、音の変化。いちいち驚ける、美しい音。リズムがへんでも。情感、なんか込められなくても。ただ、音と一緒にいら れる時間。それを、この私が弾いているなんて。とっても奇蹟。
私にとって、ピアノはずっと劣等感を刺激するものだった。
発表会の前に、指を怪我する。ソルフェージュを練習しない。ううん、ピアノだって。先生の怒りの目の色。努力が嫌いなくせに、特別、(誰かの、先生の)を、生きたい子供。本当に甘ったれだ。なっちゃない。
どんなに練習しなくても、怒らない先生、がいる、と聞いてきた母。ううん、私が聞いてきて、母に頼む。1年のブランクの後、先生をかえる。新しい先生に習いはじめる。
それはちょっと気まずいことでもある。だって、同じ団地に住む先生。お稽古が嫌で、ピアノをやめた私が別の先生につく、というのは。話なんて、すぐ、伝わってしまうだろう。子供なのに、ピアノ、に関して、こそこそしてしまう。
私は、その頃、バレエを習いたかった。でも、父は習わせたくなかった。“ピアノを続けるなら、バレエをやってもいい”と、いう父。そんな、くっだらない= 本質的でない条件を、いつもはつける人じゃないのだけど。父から伝わるメッセージはいつも“本質を捕えなさい”。言葉によるお題目ではなく。ふとしたとき
に見せる父の態度や、ちょっとしたことへの父の意見。それによって科学的?態度が身についたのだけど。パパはよっぽどバレエが嫌いなんだ。私がとても心ひ かれるものなのに。魂が喜ぶものなのに。魂の本質に触れるものなのに。すっごくうれしいものなのに。バレエを反対される、というだけで、幼い子には、自分
全部を受け入れてもらっていない、寂しさ、心もとなさ、不安さが生まれる。そう、すぐそんなふうに、寂しさ、を感じてしまう子供=私。“ピアノは、手の 形、変わらないけど、バレエは、足の爪が割れたりする”。真面目な調子で、苦い味のする物言いの父。きっと、外反母指になる、というような、知識もあった のかもしれない。
新しい先生は、お稽古の合間にお茶を飲ませてくれる。練習しなくても、あんまり怒らない。ううん。にこにこして、ぜーんぜん怒らない。お稽古が終ると、飴 だって、くれる。やさしい、おばあちゃんの先生。だけど、少し、前にひいていたものから、やり直す形になる。それは、常に、“いい子”でいたい、私の劣等
感を刺激する。“ピアノ”は、息抜き、というか、サボっても、自分のなかで、×のつかないものになる。だから、本当にさぼりっぱなしだ。ちっとも、上達し ない。
だけど、ピアノは結局やめなかった。バレエは自分が太りはじめて、やめちゃったけど。ううん、表向き、バレエをやめたのは、中学を受験するから。勉強する 時間に当てるから。だけど、太った私は、バレエの先生から、疎まれてしまう。常に、誰かの(=先生の)特別、をいきたい私。そんなふうに常に甘えていたい 私。飢餓状態だ。
それでも、さすがに、やさしい先生も、おけいこの時間に何度も遅れると、ある時、切れていた。すごく怒っていた。やさしい先生が怒る瞬間。そこまで、投げ やり、な私。だけど、なぜだか、やめなかった・・・。その先生に、ピアノの“音”の美しさを教わった・・・。曲なんかすらすら弾けなくても。十分に美し
い、“音”。きっとその“音”がすきだったんだ。大好きな“音”と一緒にいたかった・・・。多分。
・・・・・・。でも大人になって、すっかりやめてしまった。ピアノなんて、弾きもしなかった。見向きもしなかった・・・・・・。
・・・それが、変化したのは・・・。
2000年のゴールデンウイークに友達夫妻が泊りにきてから。飲んだ翌朝。奥さんのほうは、ゆっくり朝寝坊さん。だんなさんは、なぜか、家にあるピアノを 見つけ、弾きはじめる。興味のあることには夢中になるタイプ。パソコンオタクでもあるという。2時間も弾き続ける。しかも、中学生?高校生ぐらいのときに
弾いていた曲。ソナチネ。ソナタ。10年振りに見る楽譜だったそう。こんなことをいうのは、何なのですが・・・。ちっともうまくない。荒々しい?男の子ら しい?タッチ。だけど、比較的正確なリズム。聞いていると、何だか、楽しくなってくる。止まっていた、時が動きだす。私も弾きたくなってくる。“そうか。
どんなに下手くそでも、ピアノを弾いても、いいんだ”。“楽しんでも、いいんだ”。そんな簡単なことが、やっとわかる。
そうして、その人と、一曲だけ、連弾した。本当は一人で弾く曲。でも、二人とも今となっては両手では、その曲は弾けないから。(かつては弾けた曲でも)。 私が左手のパート。その人が右手のメロディを。ゆっくり弾く。それでも、確実に曲が紡がれていく。すごく楽しかった。音も。とてもきれいな音。誰かと一緒
に弾く、ということも。ピアノを大人になってから初めて?ぐらいに?楽しめた。(大好きな/大好きだった)ピアノ。
それから毎日ピアノを弾いている。
母にいわれてショックだったこと。“あなたのピアノの音はいらいらする”。今から思えば、それは当然。実際下手くそだし。暑い夏の日。母は炎天下の中、洗 濯物を干す。働いている。私はピアノを弾いて遊んでいる。でも、その時は・・・。とてもショックだった。母を楽しませることも出来ない。自慢の対象になら
ないピアノ。自慢の対象にならない私。それは、とても恥ずかしいこと。消え入りそうな気分。自分を消してしまいたいような気分。子供の私にとって。
中学?にはいる頃からか、私は、弱音モードでしか、ピアノを弾かなくなる。私がいった私立の中学(高校もあって一貫教育)は、“お嬢様”が多かった。い え、私はしがないサラリーマン家庭(父は勤務医だった)の団地住まいのお嬢様でした・・・。でも、世間から見れば、私立にいったというだけでも十分お嬢様
なのかもしれない。それは、とても贅沢なこと。きっと感謝すべきこと。ううん、とても感謝している。今の私を形作ってくれている。それを与えてくれた、宇 宙に、そして親に、感謝。だけど、単純に手放しで喜べる中学生活でもなかった。それがあたりまえなのだけど。それが思春期なのだけど・・・。 ピアノだっ
て、芸大にいくようなレベルの人が、たくさんいる。音楽の時間の歌の伴奏だって、初見で、どんどん弾く。合唱大会の指揮も伴奏も。軽々とこなす。スポーツ も勉強も芸術分野も本当に、何でもできる人達。恐れ入ってしまう。東大にいくような人が、芸大にいけるほど、ピアノも弾ける。もう、絶対かなわない。そん
なこと、比べる必要、ないのに、ね。いちいち比べて、自分のなかで順番をつけなければ、気がすまない、思春期。それは、申し訳ないことだ。今考えると。他 の人に対しても。自分に対しても。比べることで、見えなくなってしまうこと、たくさんある。
で、ピアノは見えなくした。ううん。聞こえなくした。弱音モード。(それでも、レッスン自体はやめなかった。弱音でも、弾き続ける。思春期の屈折)
それから、大人になった。
大人になって、幾度か引っ越した。何度目かの引っ越しのとき、母は、“ピアノを送りたい”といってきた。それまでより、かなり?大きな家?に引っ越したの だ。ピアノの置ける家。“ママのところに置いておいてよ”。“ううん、早く、送らなくちゃ。送るわ”。何で、そんなに、こっちに送り付けようとするか、わ からない私。どうせ弾かないのに。(会社勤めでは、ピアノを弾いている時間なんか、ない)
・・・・・・
そうして、今、わかった。
母はもしかしたら、“真佐子は、家では、ピアノを弾かなかったけど、なぜだか弱音モードでしか、弾かなかったけど、別の環境なら、ピアノを思いっきり弾く かもしれない。ピアノを楽しむかもしれない。家族の中で、ピアノを弾くのは、真佐子だけだから。このピアノは、真佐子のもの”。母はそんなふうに思ったの かも。
ピアノは最初は母のものだった。母の幸せの象徴。
だけど、ピアノは、弾く人のものだ。
どんなにへたくそだとしても。
母は私にピアノを送る。ピアノを私に返す。
私は最初は母のものだった。母の幸せの象徴。
(そうして、母の幸せにとても応えたい、と思っていた私。がんばっていた私)
だけど、人生は、それを生きる人のものだ。
どんなにへたくそだとしても。
母は私を手元から手放す。人生を私に返す。
母のもとでは、そうでなかったとしても。思いっきり生きるように。
私らしく生きるように。・・・それは、尊重と尊敬と信頼に基づくもの。
じゃまだから、切り離されるのではなく。愛に基づく、Detachmenet.
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私のありよう、私が私でいようとすると、母の思いを裏切る。傷つける。
母が母のありようでいると、それも私を傷つける。
出会えない、母娘。
母の思いを裏切った?こと。他にも、ある。
漢字の書き取り。
母は幼い頃、漢字の書き取りが得意だった。自分の子供が生まれたら、その練習方法を伝授しよう、と、考えていた。簡単で、確実で、子供も、自分も、鼻が高くなる。そんな方法。
でも、わたしは、いやだった。母と漢字の書き取りの練習をするのは。絶対いやだった。
なぜだろ?小学1年生が、そこまで、意志をもって、いや、と言い張れるのは・・・。
はじめて字をかいたのは、幼稚園のとき。お友達のH君のお誕生会。カードをかく。 H君の名前。何度も練習し、カードにかく。うまくかけない私。一生懸命練習しているのに・・・。“それなら、初めに書いたもののほうがずっといい”と、切 れて、わめく母。“えっ?それなら、こんなにばかみたいに、練習なんかさせないでよ”。言葉にならない、私の思い。すでに何度目かの、母を見限る瞬間。
母の前で、字を書くのはいやだった。母がヒスを起こすのは、目に見えていた。ううん。そこまで、考えていたかどうか。でも、きょうせいされてするべんきょうは、なんだっていや。ははのやりかたは、ぜんぶいや。
降参した母は、家庭教師をやとう。母の敗北。(そして、母の勝利)。
家庭教師の先生には、なつく私。結局、私立の中学にはいれるくらいの実力をつけてくださった。勉強をする習慣?が身についた。それは、私の財産。(そうし て、勉強のできる娘。母の自慢の存在でい続けることができた。それは母の勝利)。でも、大人になってから、その先生とは、お友達には、なれなかった。私が
私から、切り離されていたから? もしかしたら、その先生は、母にずっと、シンパシーを抱いていたから?わからない。でも、出会えなかった。きっと、私が 私に出会うのに間に合わなかったからだと思う。
私は、ずっと、“汚い字”で、とおしてきた。“しょうがないじゃ~ん”で。でも、大学にはいったとき、きれいな字でノートをとってみた。“このノート、誰 に借りてきたの?”自分のノートを開いて、テストに備えていた私にいう母。“なにいってんのよ。わたしのよ”。大学にはいったことが、自信になったのか。 そう。きれいな字も書ける、私。そうして、1つ1つ自分に近づく。
きっと。ピアノも。もっと、他のことも。
母のとんちんかんな、だけど、それでも、精一杯の想い。それも、十分な愛情だと思うと、それは、涙が出る。お互いがお互いのありようのまま、擦れ違うってことは。涙が出る。・・・。きっと私にとって、私の魂にとって?悲しいことなんだ・・・。
であえるのかな。まにあうのかな。
私が、どれだけ、私自身に出会うかに、かかっている?のかも・・・。
そうして、母とも、これから出会う。きっとまにあう。Never too late...
大人になると、いろいろある。母の“理想の子供”の役割から、降りてしまう。慎重に、レールから降りる。次なる一歩へ。冒険をはじめる。本当の人生を。と ても慎重に。とても誠実に。でも、母からみると、突然の転身。無謀な賭け?にしか、見えない。母は誰かに守られて生きてきた。母の実家の父に。そして、私
の父に。あまりに神経質で、心配症で、冒険なんて、できない、体質。そんな母には、私の生き方は、理解できない。いきなり、には。荒れ狂う母。“でもね、 ママ。私は大人になったのだから、もう、ママは口出しできないんだよ”。静かにいう私。母の驚いた顔。そうして、母も冷静さを取り戻す。
さらに、それから、いろいろある。母が、“あなたのことが心配なのよ。ずっと気にかけているの”。“あなたとはずっと擦れ違ってきていると思っている”と いう。私は、3-4歳のときからずーっと擦れ違っていると思ってきた、何十年も。言葉にしない/ならない、私の想い。でも、次の言葉は思いがけなかった。
そして、うれしかった。“私が何か悪かったなら、謝るわ”と。父がなくなって、母を守ってくれるものはない。母ははじめて絶対的な安心(=絶対的な傲慢 さ)というシェルターから抜け出る。はじめて、人生(=頼りなきもの)に向き合う。私の生き方をみて、はじめて“頼りなきものも安全”と知る。“ママの心
配はいらない。それは、ママのもの。でも、気にかけている、というのは、うれしい。ママが謝ってくれたのは、うれしい”、といったときに。母がいった言 葉。“Never too lateね”。遅すぎることはない。母もまた、擦れ違いを解消したかった。私と出会いたかったのだ。
きっとこれから出会っていく。私自身に。母に。さらに多くのものに。世界中の、何かに。さらに深く。出会っていく。Never too late...
きっと。あなたの娘でよかった。ありがとう。ママ。